哀愁のサイパン旅行 SAIPAN サイパン 砂糖王公園(Sugar King Park)。
サトウキビの運搬のほかに学生の通学にも使われていたという。
SAIPAN 2010
砂糖王公園(Sugar King Park)
砂糖王公園(Sugar King Park) 観光スポット シュガーキング 松江春次
松江春次
明治9年 福島県会津若松市鶴ヶ城で生誕。
意外にも東北人、旧会津藩は学問を奨励しており、文武とともに会津の武士道が活きていた。
1921年(大正10年)南洋興発株式会社設立。
南洋開拓に生涯をかけた人物。
日本で初めて角砂糖の製造に成功した人物。
当時沖縄や東北で深刻な人口過剰問題となっていたので、貧困からの脱却を求めて日本人(特に沖縄県人)が開拓移民としてサイパンに渡った。
サイパンでは、これまでいろいろな農業、産業が試みられるが全てうまくいかなかった。
未開の地であったサイパン島を、苦労に苦労を重ねたの末、発展させた.
深いジャングルを切り開き、起伏が多い地形をぬって鉄道を敷設した。
松江春次の功績は、地元人からも信頼され、シュガーキングの名前とともに語り継がれている。
また
サイパン島・テニアン島で活躍昭和11年には3万人の従業員や農業従事者を抱えた。
島は栄え、社員や島民の福利厚生は整っていた。
病院は無料。
当時日本で消費された砂糖の3分の1はサイパン産だったという。
製糖業のほか水産業・製酒業、鉱業・油脂工業・交通運輸業・貿易業に及んだ。
間違えやすいポイント
サイパンは、一次大戦でドイツ敗戦後、国際連盟から日本が委託を受けて統治していたようだ。
したがって、ここは武器を持っての朝鮮、中国侵略いう状況ではないようだ。だから親日的なのかもしれない。
南洋興発株式会社では、日本人も現地人も給料は同じだったとの説もある。
隣のグアムは米国統治でまた違う。今もグアムとサイパンは同じようで別の国ということだ。
全てを壊したものは太平洋戦争であった。
春次は、砂糖の研究でアメリカ留学をしており、米国の強さを肌で感じていた。
日本はアメリカには絶対に勝てないことを知っていた。
また開戦の場合、サイパンが激戦の場になることも想定していた。
連合艦隊司令長官山本五十六と親交があり、米国との戦争回避をお願いした。
しかし宣戦布告、開戦され、製糖工場は全て操業中止。
まずサイパンが廃墟化した。
南洋興発株式会社社員や住民も軍に動員命令が出され、みんな命を失っていった。
バンザイクリフから飛び込んだのも、南洋興発株式会社社員や家族、民間人が大多数であったようだ。
日本敗戦で、日本統治時代の象徴のようなこの松江春次銅像も米軍により壊されそうになったが、現地人が人垣をつくり、『われわれの恩人だから、壊さないでほしい』との強い要望で残されたという説がある。
松江春次 昭和29年11月29日。脳溢血で死去。享年78歳。
同じ会津の野口英世と同じ中学で机を並べた 会津の魂に共通点が。 情熱と世界貢献。
太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男 が流行っていますが
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